2013年7月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:7月21日(日)
  • 例会出席者:14名

詩・こんにちは/さようなら

 対になった作品を、なぜ頁を離して掲載されているのか、との質問が出されました。これは編集・構成上からの都合によるものです。頁を組むにあたり、見開いた右頁から読めると、自然に作品の中に入っていきやすくなります。左頁からですと、幾分、前の作品のイメージが尾を曳いてしまうのです。そのような場合、1頁の臨時の作品を挿入する工夫を施すようにしています。今回それに相当するのが「こんにちは/さようなら」です。頁が離れているので、作品も独立したものにすればよかったのですが、そこのところは失敗でした。詩の深さを追求することなく、「挨拶」という、ごく浅い日常の反復を言葉に投じてみました。「こんにちは」も「さようなら」も、挨拶の向うところは自分自身で、そんな「ふっ」とした瞬間は誰にでも経験・体験があるのではないでしょうか。言葉の選択とか、〝てにをは〟の使い方などについては、反省しなければなりません。

映画日記 33

 今回は、掲載の「映画日記」に初めて接した方が、新しい会員、見学の方、と数多く、あらためて粗筋だけでなく内容を、作者の意見を、見ていない方にもアッピールを、といった要望が出されました。ときには、二、三の作品について映画批評・評論として展開することがあっても好いのかもしれません。自分のためと読者サービスは、おそらく両方とも必要でしょう。……ということで今回の「映画日記」、一目で感じたのは、星印評価の高い作品が多いな、ということでした。映画ファンにとってはよい傾向になってきているのでしょうか。それと、日本映画に占める女性監督の活躍が目立ってきている現状です。紹介されている作品で、観たいと思ったのは、やはり星印五つの「クレイジーホース・パリ 夜の宝石たち」でした。ダンスの素晴らしさは、美そのものが瞬間に現われ、消えてしまう、そこにあるのです。

女人成仏

 書き方、構成の仕方に盛り沢山なところがあります。タイトルを「女人成仏」と置き、どうやら恋愛小説らしいのです。最後になって名前が出ますが、なんとなく福月さんの登場が遅いように感じました。連載作品なので、このあとたっぷり書かれることを期待しています。この項での登場人物は、主人公の池中日出男と音楽家の杉山、それと画家の田淵になっています。杉山との会話はフロイトとユングの違いに進み、どちらかと言うとユングに近い日出男は、かつて遊学先の画家仲間で先輩である田淵さんのユング理論のことを回想するのですが、やはり日出男は日蓮仏法を根本思想としていることを陳述するのです。小説の作法で書かれていたのに、急に戯曲調になったりして、その意味はわかりませんでした。福月さんと、彼女として話したのは3回と書かれています。冒頭に、3枚のデッサンとあるのに符牒があっています。デッサンをしながらの二人の描写をすると、もっと小説らしくなります。

雲の歳時記 こごり雲

 導入の「想思鳥」のくだりは、いかにも切ない思いがしました。相思相愛であるオス・メスの内、オスだけを輸入するというのは、そこには「死」だけしか待っていないのですから。でも、「狭山丘陵や高尾山あたりで野生化した想思鳥が群れになって……」とあるので、メスもいることはいるのでしょうか。15種の動物、主に小鳥が登場している作品です。ここで「私」が飼ったペットはキンカ鳥と、熱帯魚と藻エビ、カナリアです。飼うのにあきてしまった私は、餌をやることを怠ったため、キンカ鳥を死なせ、熱帯魚を藻エビに食べられ、藻エビも水に溶けるように死んでしまいます。カナリアは蛇の体内へと呑み込まれてしまうのです。私の身近に置いた生を見つめ、その死を受け入れることを反復した作品なのです。残酷なような気もしますが、そのことによって母の死を、私は死として容認できたのかも。「空にはもうちぎれ飛ぶこごり雲はなく……」は、母の一周忌を迎えた私の静かな心境です。

ストーブ

 作者は独特な観察眼と、思考的行動の持主なのだと感じさせられた作品です。もしかしたら表現に慣れていないために現われたものなのかもしれませんが、根がないと、こうした特性には感じられないのですから、これが自分の文体として大事にしていっていただきたいと思います。作品に象徴的に書かれているのは、手の平のこと、車の窓の内と外、ストーブの温もりと光、だと思いました。トランプほどではないにしても、なるほど人間の肉体は平べったいものです。事に手の平は平べったく、その形状に内と外の感覚は様々な様式・形式を感じさせます。車の窓の内と外は、肉体を離れた、人間関係や社会における秘密めいた難しさを意味するでしょう。「オレンジ色の海がパンっと割れた」は、内奥にある目が開かれた一瞬で、「温もりと光」とを自分の手につかんだ、前向きさを感じます。挿話だけでつなぐ構成から、主題のもとに書くよう努力されると、きっと、もっとよい作品が生まれます。

和子

 随筆風だけれど小説、みたいな作品を書いてみようと思って書いた作品です。場違いな感じで、「私は私である」「私は嘘つきである」についての思考が入っていますが、この部分は随筆でなくエッセーなのだと理解していただければありがたいです。この命題に関しては、以前、文学論で書いた記憶があります。わけのわからない書き方をしていました。けれど今回は、易しい文章で、うまく書けたと自分では思っております。ウィトゲンシュタイン哲学の流れをくむ言語学者が、「言葉には何の意味も無い」と結論付けたと聞いたことがあります。私が書いた相対化の構造の先には、その「言葉には何の意味も無い」があるのかもしれません。飛躍してしまいますが、だから小説はおもしろいのです。と言いながら、この作品です。現実にさらさられて、迷子にならないよう、弱いながらも生きている男と女、そんな日常を読んでくださるとうれしいです。もちろん筆力不足はいたし方ありませんが……。

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