毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
前奏曲があって、始まりがある、「恋のプレリュード」と「想い想われ二つ星」はそんな構成なのでしょうか。「恋のプレリュード」に見られる詩形は独特です。各連のはじめの一字上げと一字下げの、詩的効果・作用は作者に伺わなければわからないところでしょう。そのことを伺った後に、この詩が六行詩なのか五行詩なのかも判然とするのかも。さて内容です。タイトルからして「恋のプレリュード」なのですから、いわば前奏曲で、恋の予感みたいなものを表現すべきだと思うのですが、なぜか、「君の瞳は/どこへ行ってしまったのだろう」と、恋が終わってしまったところから起されるのです。これは、作者の心の中にある混濁の結果が、心情のままに詩に登場しているからだと思われます。少しずつ考慮されたらよいと思います。表現にはいくつもの関門があります。今回は詩形の一つを作者が自分のものとされたのを「よし」としましょう。なにによらず、創作は一歩ずつ前進する以外にありません。
子供の頃の回想をすると、たまらず自分を抱きしめてあげたくなるものです。「家に帰ってランドセルを置くと、放課後の図書室に通った」の一文は、読者が読む分には、なんの変哲もない文章かもしれません。けれど、その作者にとっては何物にも換えがたい宝物なのです。ランドセルを背負った背中の感触、重さ、小学校の放課後の空気、そして図書室と書かれ、その当時の自分がまざまざと現われてくるのです。文学少女だった作者は、その読書歴を披露します。現在ならばもっと深く読めるだろう作品を、少女の自分がたどたどしく読んていたという記憶、ああだった、こうだった、と回想し、ふっと、その少女が自分になったのだと述懐するとき、自らを抱きしめずにはいられないのです。元来、随筆は日記から発展したもので、自分のための書き物です。そこに、古本屋の主人のごとく父親をイメージさせ得たのは、作者の父への愛情の結露で、手向けです。
一連の「東日本大震災」に関する紀行作品に区切りがつき、ふっと、回顧調ともいえる「晩秋まで」と銘打った一章なのでしょうか。セザンヌはいかにも落着ける画家です。友人のTさんが、「再現されたアトリエがよかった」と言ったそうですが、鑑識眼の優れた方だなと思いました。セザンヌのアトリエの絵の具の垂れた床を見たとき、私は、ポロックの絵のようだと直感したのです。Tさんって、すごいです。高倉健、吉永小百合、石原慎太郎と続きますが、行数がありませんので吉永小百合、それも「赤銅鈴之介」について。「文学市場」の会員で、昨年亡くなられた宇野さんは、若い頃、テレビドラマ「赤銅鈴之介」の何作かの制作に関わっていたそうです。作者と吉永小百合は大学において、教室を一緒にしたことはなくとも、時間と空間を共有していたわけで、いろいろと人生は隣り合わせるものですね。「メルトダウン前夜」と筆を置いた作者、次作が待ち遠しいです。
作者の新しいシリーズ作品の始まりです。タイトルが『本郷見返り坂春秋』で、副題が「手妻師段蔵捕り物双子」となり、章題の「消えた越後屋」なのです。時代物に精通している方なら、「本郷見返り坂」とは何処にあるのかわかるのかもしれませんが、それを知らないものには、見当がつきません。冒頭の「上野寛永寺の鐘が暮れ六つを……」とともに、「見返り坂」近辺の風物描写を、まずは欲しいところです。それから、作者はこれまで「捕り物」のシリーズをいくつか書いてきましたから、その気分が残ってしまったのか、段蔵にとっては初めての岡っ引き仕事なのに、しげに「また捕り物かい」と言わせてしまっています。また段蔵は、元興行主で手妻師でもある人物なのですから、地回りとの揉め事にもそれなりの合理性が要求されます。文学賞に応募するための作品だと思いますので、作品の構えみたいなものを指摘しました。江戸風情は完璧です。細部が勝負となるでしょう。
小説を書く手さばきがよく見える作品で、作者が「小説」を巧みに御している様が伺えます。主人公の「留香」は、以前書いたことのある作品に登場した叔母さんの人物像を、自分の視点となる人物に構成しているのです。しかも、当然のことのようにキャラクター的な変更も加え、見事な三人称的一人称小説に仕立てています。「留香さんありがとう。ご苦労さまだったね。/ところでお義母さんはお元気ですか」は秀逸な表現です。実際に作者が体験したことであっても、このように「作品に書ける」ということ、そのこと自体ですばらしいのです。その後の作品は、都会と田舎、学歴問題、差別のこと、人種問題と、小説の大きな題材が目白押しになってしまい、この作品の焦点はぼやけてしまいましたが、「視点人物」をしっかりさせると何でも書けるという、小説の書き方のコツをマスターした作品として、この作品は記念となるでしょう。いろんな作品を書いていってください。
文体に目を引く作品です。感情をしぼりとってしまった文章で、作者は何事かを表現するのです。それは「タダシイカゾク」なのですが、「タダシイブンガク」でもあるように思えます。内容的には、昔のいじめに対する断罪を表現しています。一般的には、それが「正しい」ものなのかどうかわかりません。個に分断された家族が、昔いじめられた者と連携し、浩美を取り囲む、言ってみれば、とても恐い話になっているのです。キーワードになっている「ウナギ娘」は、もっぱら象徴の役割を果たしているでしょう。おそらく、しぼりとられてしまった感情の象徴が「ウナギ」なのです。結末において、「そうよ、どうせまた、濡れるんだから」の百合香の言葉は家族における「感情」の回復なのか、それとも、今度は浩美をいじめの対象とする「ウナギ娘」化であるのか、両義的です。解決されたのか、それとも反復なのか。文体で表現する作品は評価に値します。でも、やや理念に奉仕し過ぎの感も……。