毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
確かに、歌を詠む、その詠み方は様々にあります。一般的には、吾と自然や世界との「和」的な交わりの表現をするのが短歌(和歌)です。もっとも、本道から逸れて色々な技法に遊んだとしても良いでしょう。「いのちのゆくえ」は、散文的なメッセージを短歌の形式に表現している「短歌」のように思います。このような詠み方をすると、メッセージに共感するか、しないか、によって賛否が分かれてしまい、短歌であることがどこかにいってしまいます。そのことを作者は自覚して、その上で、この詠み方に研鑽を積むのであれば、それも一つの方法だと思います。ところで皆さんが一番支持した歌は、「物音の絶えし真冬の朝まだき残雪の庭広々とある」でした。「真冬」と「残雪」により「物音の絶え」た様が現わされ、しかも「庭広々」なのです。そこに一歩踏み出すならば、自己の「一人」があからさまになる、まさにその一瞬を捉えて詠んだ歌になっています。
面白い書き方の作品です。父親の雄一、母親のゆかり、姉のさゆり、姉の恋人の圭太、それに主軸となる主人公の長男の良介、が登場しています。いわば家族小説といってもよいでしょう。そこに視点人物を良介・ゆかり・雄一と、交代させてゆくと、何かしら家族の円球みたいなものが醸し出され、「踏み切り」の踏み切りたる所以が伝わってきます。回想としての、雄一とゆかりの結婚や田舎の両親との同居のこと。現在進行形のさゆりと圭太の結婚話が、人生の節目節目として、「踏み切り」に喩えられている作品なのです。狭く、単線である「踏み切り」は、後戻りのできない覚悟みたいなものでしょう。ゆかりはいつもこの踏切を利用しているのですが、その度に乱暴な運転をしてしまうのは、なにかしらのトラウマがあるからで、このことは雄一の「首をしめる」のエピソードにも象徴されています。視点人物は良介、主人公はゆかりでしょう。それにしても音楽が好きな家族ですね。
不思議な作品です。5章に章分けされ、その内の1章と5章はどこか随筆風な書き方に感じられます。それに比して2・3・4章になると作者の影が消え、作品世界が屈託なく自在に描写されている、と感じました。ここの表現は見事なものです。1章と5章はリアリズム、2・3・4章は自然主義小説風な方法と捉えると納得するのですが、作者の意図はどうだったのでしょうか。ある時、中西尚美はクラスのボス的な存在の級友と口論になり、それが切っ掛けとなり吃音になります。その最初が芥川龍之介『羅生門』の朗読で、「あ、あめは羅生門を包んで……」です。「私」はこの羅生門のうち側にいて、出て行こうにも出て行けないでいるのです。「山の生活」とは、この自分そのものの開放です。遠い田舎という空間的隔たり、祖父母という時間の遡行。「強い力、そして愛情」を求める私は、内なるオオカミに自分を重ねていくのです。構成はともかくとして、見るものを見ている作品であります。
グラリと作品が動き始めた章です。この連載も残すところ(六)(七)の二回となり、なんとなく全容が見えてきた感じがします。読者としては、主人公の鳥飼登に何らかの活動を期待して読んでしまうものですが、もしかすると登は、トルストイ『戦争と平和』のピエールのような歴史の伴走者・観察者なのかもしれません。登場人物の一人ひとりが歴史の主体者なのです。だとすると、かなり格調の高い作品を作者は意図していることになります。さて、どうなのでしょうか。この作品の経緯は伺っています。わりとエンタメ的な要望に対して、純文学的な応え方をしてしまっている作品なのかな、と感じています。いわゆるミスマッチです。でも、そちらはそちら、こちらはこちら、なのですから、こちらではこの「扇の蟻」を楽しむことです。いくぶん不満なのは、「早矢」の描写が少ない点です。早矢は味付け的な登場人物なのか、中央にある人物なのか、それは次の「六章」を楽しみにということで……。
『明治文壇黎明期の群像』の着想は、いかにも面白いです。もちろん質の高い日本文学はそれまでもあったのですが、西欧の主語の明確な表現が入り、この時期、日本文学は一変するのです。主語が意識され、その主語を取り巻く「日常」が発見されたとき、「私小説」が書かれていくのです。おそらく田山花袋は、その自然主義小説の第一人者でしょう。それに田山花袋と尾崎紅葉の両巨頭の因縁は、その後の日本文学の様々な流れを作っているといえます。その二人に、作家としての経緯があったことは興味深いところです。それにしても、貧窮していた家族にあって、働こうとしない田山花袋には、やはり作家たる何かがあったのでしょう。すさまじい精神を感じました。金銭的な事情、漢学と洋学の変遷、文壇のややこしい人間関係、その他、多くの資料を駆使しての展開には敬意を表します。次回は尾崎紅葉とのこと、より人間臭い側面があるのかな、などと期待しています。
作者はたいへん教養のある方ですが、これまでの作品には何となく、私は私、作品は作品、といった境界線みたいなものを感じておりました。ところが今回の作品にはそれがなく、文章に作者の主体が一体化して感じられました。書くことにためらいがなく、自己表現がなされているのです。人は/どんな相手でも//先生である、と書き出され、二十歳前後の女子学生が現われるのです。この作品の要はなんといっても、私の「ありがとう」に対して、少女の「ありがとう…。本気か?」の場面です。そして、「人を助けた」と少女が自分に喜ぶ所です。「木蓮の精」と名付けて見下していた少女との、魂の邂逅を果たした一瞬でしょう。それにしても〈「木蓮の精」と名付けた〉とありますが、創作なのか事実なのか、あまりにも適切です。木蓮の花は空に向って垂直に立ち、その蕾は手の平の合掌の様、それが開いて花咲くのです。花弁は沢山ありますから、みんなの手が合わさり、そこに花咲くのです。