2013年4月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:4月21日(日)
  • 例会出席者:11名

病葉を今日も浮かべて

 なにかと焦点になる「沖縄」を冒頭に置き、仲宗根美樹の歌『川はながれる』から筆はすすみます。現実にある川は高きより低きに流れるものですが、人の思いというものは、どうやら昔へ昔へと、己の根源に遡る傾向があるみたいで、その道筋に添った随筆の構成になっています。己を病葉に喩えつつ、若葉の頃の自分を追想した作品でしょう。石神井川、四万十川と綾瀬川の対比、体験した護岸工事のアルバイトと、綴られていきます。川の清水とドブ川の例えは、いつとはなく、人間の対比に移り、もしかすると清濁のあわいを切るものである剣道の真髄へと深み終わるのです。作者の真骨頂を味合わせていただいたような気分になります。「さし面」については異論がありまして、私はスピード剣道において必然の流れだと思っています。剣道を武道だと捉えると、作者の態度が正しいのでしょう。作品の内容、書き方、筆力が増してきたように感じました。

短歌・茂吉短歌文学賞、他

 作者は昨年12月に脚を骨折されたのですが、みごと恢復されて例会に出席されました。なぜそんなに作者は若い心を持っているのか、そのことを、今回の短歌からうかがい知ることができました。「はつ夏の風吹きそめて若き日の友がつくりしブラウスを着る」が、それです。「はつ」は「初」でもあれば、「発」となりて、「風」ともなじむ言葉です。「吹きそめて」は空間の模様のことであります。「若き日の友がつくりし」は、今は昔なのだけれど、その「ブラウスを着る」時、「はつ夏の風吹きそめて」の時空にいる自分と「成」った、その自分がすっくとあるのです。なんとも鮮やかで美しい瞬間を現出しています。この心持こそが若さの秘密でありましょう。また、「手術室にゆきたる人のベッドより点滴つるす金具が光る」には、人の痕跡を見つめる目があり、そこに命の立ち上がる祈りのようなものを感じます。短歌を詠む作者と、その健康に万々歳です。

娘の結婚

 随筆なのだから、ここに書かれたことは事実なのだろうと推察、自ずと、おめでとうございます、の言葉が浮びました。それにしてもよかったですね。御両家の結婚、娘さんと先方のご子息との結婚話が、曲がりなりにもスムースに運んだのは、戦後の歴史、平和、民主主義といった色々な価値観を両国で共有した賜物ではないかと思われたりもします。戦後のアメリカ軍の毛布をMPとお母さんが引っ張り合ったように、今度は娘を綱引きするとは夢にも思わなかったでしょうが、このようなエピソードをジョーク風にアレンジされていて、思わず笑わされました。なんてたって文化の違いは最後まで心配されたことでしょう。とにもかくにも、第三次世界大戦が回避されたことは幸いです。新婦の「お父さんのように強くて優しい人に……」は、最高の泣かせ言葉ですね。こんな言葉をちゃんと言える娘さんですから、きっと幸せな家庭をつくられることでしょう。

もう一度……三月の雪の中で

 作者は抒情を得意としていますが、そのエキスだけを抽出した見事な短篇小説です。現在はどうなのか事情を知りませんが、確かにある時期までは、先生と生徒の恋愛はタブーでした。まじめな川田先生と耀子なら、なおさら切ない関係にならざるをえません。その「恋と別れ」に焦点を当て三人称形式・一人称視点で書かれた作品です。作品を読んで理解できなかったのは、「告白してしまったら、もう先生の下宿に行けなくなってしまいそうな気がした」の一文と、後にある「手紙」の文面でした。作品の流れはそうなのでしょうが、もう少し入り込んだところがあってもよさそうに思いました。ぼたん雪は、上空に水分が多くあるために雪片と雪片がくっつき大きくなったもので、地上に降った場合は溶け易い性質を持っています。はかない雪です。作者がこのような作品におさめたのは、耀子の母親を、どこか守ろうとしたためなのかもしれません。でも、それは読者の預かり知らぬことなのですが……。

近頃の人殺し(後編)

 前編における、小気味のよい現代若者気質といったようなものなのでしょうか、ある種特有の世界の中にグッと入り込んだ展開は、客観性の内に読ませてくれます。もっとも「人殺し」の言葉には、若者は抵抗がないらしいのですが、やはり私などには「!」ですが……。後編では、その客観が主観に選手交替したのでしょうか、やや抒情に反転しての運びとなります。駅で待つ場面の、100円玉を使った心理描写は、いかにも若者が置かれている現在にほかならないでしょう。〈好ましい未来〉、確かにそれを掴んでいってほしいものです。前編と後編とに分けて掲載したせいでしょうか。なにかしら対比に捉われてしまいます。客観と主観とはすでに述べましたが、下降と上昇、死と生、いろいろとあります。一般的な小説ですとストーリーに視点を置き描かれます。純文学ですと、現在という幅みたいなものを抽出するところがあります。この作品は、その両方に少し欲張っているように感じました。

小説『屋久島奇譚』について

 作者が書き終えた小説を読む、のが読書の一般です。そこで問題なのは、「書き終える」ということがあるのかどうか、ということです。作品にこだわりを残すということは、とてもよいことだと思います。自分が何を書きたかったのか、極限まで考える行為だからです。井伏鱒二は「さんしょううお」に、死ぬまで筆を入れていたと聞いています。あんな短篇なのに……。今回の提示にはとても納得しました。私の気になっていたのは「幽子」でした。その幽子が最後を飾ったようで、よかったと思いました。「屋久島奇譚」において一番気にいっている場面は、駒本の運転する車と、幽子の自転車との事故のシーンです。人と人との出会い、それが小説なのかもしれません。「杉の小枝」という小道具にも感心しました。そういえば、西洋では神に血を捧げるけれど、日本では「さかき」でもって神人を渡します。植物は種子によっても、挿し木にしても命をつなぐことができます。

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