毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
謎だらけの作品です。ミスターTとは何者なのか。「扉から最も近いカウンター席に座って、ジャックダニエルのダブルを静かに味わう常連のひとり」とあります。ジャックダニエルのダブル、二杯目、二度現われる、の「二」が夫婦を象徴して響き、作品で強調するところの妻殺しを連想するのですが、うまく筋道が立ちません。「野獣のように襲いかかり」「愚鈍な正義」「日常を装い続ける悪」。そして「メリークリスマス」「透明の世界へと静かに消え」です。これは誕生と死とを対比したものであり、言い換えれば、死という転生をメリークリスマスの言葉に籠めているのではないかと思いました。さて、この「ねこ」というBarですが、上記のように類推すると、霊の終結場所なのではないでしょうか。まだ躊躇う新参者は扉の傍に、意志を固めた者は奥へと入れるのです。「こぞって人が集う」の表記は、いかにも意味深です。どうなのでしょうか。誤読することも読書の楽しみです。
何度も何度も訪れる東日本大震災の現場とは、作者にとって一体何なのでしょうか。こちらの勝手な推測を述べれば、何かしら、故郷である東北との邂逅なのではないかと思われてなりません。作者の紀行文は、なぜか東北を鬼門としてきました。ところが、いざ傷ついた故郷の情況を得て、いてもたっても居られなくなり、その傷を自分のものにすべく何度も訪れるのです。作者の紀行文の楽しみは、思わぬ知識を得られることです。花崗岩には、他の岩石に比べて放射性物質が多く含まれるなんて、思わぬ収穫です。西行や芭蕉の道程。吹く島…ふくしま…福島、の由来にはとても感嘆しました。東北の「中通り」は風の通り道であるとともに、人の通り道なのだと、改めて実感させられました。信夫山には羽黒神社、湯殿神社、月山神社があり、出羽三山の本家だというのは示唆的でした。『月山』を書いた森敦の親友の小島信夫、「信夫」絡みでありますが、不思議な縁とでもいうのでしょうか。
日常に埋もれていた作者が、その日常を頼りに思い出を引き寄せ、最後のサムライではないかと父を偲ぶ回想作品です。作者の生家は山奥であるが、もとを辿れば士族で、戦乱の歴史の中で没落していったとのこと、その経緯がとても簡略に書かれています。「最後の戦乱が、第二次世界大戦で」というのは、実質を備えたユーモアに利かせているでしょう。サムライである父も戦ったけれど、母も三姉妹もこの時代を戦ったのだと。父に見る教育観はすばらしいです。そこに侠客が「お控えなすって」と登場してきます。「これはわざわざのお運び」と仁義に叶った言葉を返し、事なきを得ます。尊敬できる父を持つことは理想です。その環境を手にしていたのですから、作者の子供時代を、読者としては微笑ましく思い描きます。父は「山の学校で、私が作文を好きなことをとても喜んだ」とありますが、その作文とはどのような内容であったのか、知りたいものです。
堂々たる作品です。教養がないと深く読み込めないのが残念ですが、それにしても中国の底流に流れる文化の壮大さみたいなものは、感じ取ることが出来ます。中国の歴史は夏王朝から始まります。それ以前にもあったのでしょうが、皇帝の誕生は夏からです。つまり、夏に至って世界観念と現実世界とが統一されたのです。この後、殷、周と変転しますが、それぞれの皇帝は「夏の皇帝」であると、皇帝たる正当性を主張したとのこと。中華思想といいますが、そのそもそもは中夏思想であったそうです。「夏国を建てた姒氏にとって、龍は民族始まって以来のトーテムであり、雌雄の番は始祖禹王を表す霊獣である」、は意味深です。この作品にて私は、龍とは「水」以外に「血」を象徴していことを知りました。また、童謡(わざうた)が国を亡ぼす、という挿入にも感心しました。中国は革命の国で、システムに内深く革命が刻み込まれているのだ、と知りました。「狼少年」「楊貴妃」の説話の原型もあり、中国文化の先進性と反復性に感心します。
作品は、前編・後編に分けての掲載です。後編を待たなければ、全体に対するコメントも差し控えるべきでしょう。タイトルの評価については、面白い分かれ方をしました。女性と若い方、まあ、若い方も女性ですから、女性と男性とで意見が異なりました。男性はショッキング過ぎるとの意見です。作品は、僕からの視点での一人称なのですが、構成は客観的になされています。冒頭の出だしにおいては、やや強い自己規定の文章が見られます。自己規定・確立を試み、この出来上がった自己意識の壊れていく様を描くのが、この作品なのかもしれません。算盤の「ご破算に願いましては」ではありませんが、28歳にての失業なのです。今どきの若者は、同世代にしか世界がなく、その同世代と繋がるメールアドレスを削除した時、「人殺し」となるのですが、果たしてどちらが殺されたのか(相手か自分か)、後編を楽しみにしています。ものの喪失の中に、具象が立っている作品に感じています。
上下を通して書かれているのは、霊との交情であり、その激しさゆえに霊子は死に、霊の束縛から駒本は解放されたのではないでしょうか。東京に帰ってからの駒本は、もっぱら小説を書くことに葛藤するのですが、作品の向こうには絶えず霊子の存在を感じさせます。霊子が縄文杉(霊子杉)にて修行するのと、駒本が小説と格闘するのは、言ってみれば二人の交情の現実体なのです。沖縄のノロである霊子が屋久島に来て、東京の駒本が屋久島に旅して出会うのは偶然だろうし、小説の仕掛けです。けれどなんとなく、この「ノロ」の部分に踏み込みがなかったのは残念でした。また、女の情念というのでしょうか、植月香子の登場は、霊子の強烈な嫉妬を誘発すると思うのですが、そこの霊力の如何があったらよいと思いました。女を書かせて抜群の作者ですから、そこの機微はわかっていたと思うのですが、作品の掲載上、やむなく省略したのでしょう。