2012年12月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:12月16日(日)
  • 例会出席者:11名

祖観千実

 作者の正義感に富んだ資質に感動しました。正義感というと誤りのようにも感じますが、この作品のような純愛を書いた作者に、「正論」を感じるのです。祖観は三十年に亘って菅子の冥福のために経を唱え続けてきました。けれど、このことは祖観の方便だったのです。菅子が亡霊であっても、祖観は目に留めて置きたかったのです。菅子を家に帰さないため、経を唱え、舟に引き止めていたのです。菅子もまた嘘をついていたのです。祖観と目を合わせたならば、祖観を冥界へと誘ってしまう結果になりますから、祖観の命のあるかぎり、生きてほしいと願ったのです。その二人の逢瀬が、この三十年でありましょう。あの世とこの世での切ない逢瀬でありました。背景描写の不足、現代文のちぐはぐさ、等々の欠点はありますが、純愛は、なんてたって純愛で感動しました。怪奇譚にしてもよいかもしれません

 皆さんで首を捻りました。「洪水の来んとして蟻穴に入る」についてです。元句は正岡子規の「洪水の来んとして蛇穴に入る」だと、電子機器を活用して了解できたのですが……。それにしても「?」で腑に落ちませんでした。忘年会の文学談義で、横光利一→川端康成→新感覚派と話が弾み、檜山さんが、川端の文章には抒情文というものが一切ない、と言い、すべて感覚の文章なのだと言うのです。そこで、ふっと思ったのです。正岡子規のこの句は、一見すると駄作に見えます。象徴に欠けています。子規と言えば写生俳句だよなと考えていると、新感覚派と写生俳句の近さに気づかされました。もう少し書きたいのですが、この作品のコメントもしなければならないでしょう。右往左往する蟻と人間、同じく右往左往する人間と宇宙人、そこに警句たらんと書かれた作品だと読みました。

雲の歳時記・つばさ雲

 末尾にあるように、作者にとって久し振りの作品です。その作品が〈雲の歳時記〉で「つばさ雲」なのは、シリーズ物であることを示唆していて、うれしいです。「母の死」を息子である自己の言葉に表現した作品です。「二月に入って」「二月に入り」「二月に入って」と、一見すると構成の乱れかと思わせる反復があります。作者が主語をこれまで「わたし」と表記したことはなかったように記憶しています。溢れるばかりの感情を無私の境地に表現するための「わたし」なのだと理解しました。「二月に入り」のパートでは、思わず自我に深く入り、一箇所だけなのでが、感極まった「私」の表記が見られます。
 母上の冥福をお祈りいたします。
 「雲」とは流れるものであり、時間、強いて言えば浮世のあれこれなのかもしれません

祖母の家

 活き活きした表現の作品であると好評でした。やや構成にはチグハグなところが散見されます。「ばあちゃん家に帰ってきたぁ」とありますが、これは、小さかった頃に祖母の家で育ち、その家を出たのですが、里帰りしたという作品です。でも、「祖母が亡くなって七年経つ」となると、では本文の様々な回想は何時の自分がしているのか迷います。現在の自分なのか、それともかつて故郷に帰省した子供の私なのか、曖昧になってきます。もっとも、この作品の命は「行為」にあります。ヤッホーという叫び、アイスクリーム屋さんを追いかける、階段滑り、これらの挿話が巧みだし、作者の資質が窺われます。また、自我の整った大人になり、「日ごとに成長していく自分を見つけられないと不安だ」は、達観した内省でしょう。行為はすべてのものを内包し、そこから何事も始まるのです。

詩 四篇

 作者がこんなふうに抒情に富んだ作品を書くとは想像していなかったので、純粋さに驚きました。「木もれ日」は定型詩と自由詩の混合している作品だと感じました。基本は四行詩で、4連目でその形式を逸脱、締めはしっかりと四行詩で結んでいます。わくら葉の心情に共感です。「いまの君に恋してる」は三行詩です。ワルツを想起させます。やはり、自由詩の部分が勝っているような気がします。恋愛は詩の母なのですから、よい恋をしてください。「雨雲の向こう」は何か循環を想わせます。女の悲しみが雲となり、竜が雨を降らし、自然を潤わせます。女の涙は→星。末尾では「慈悲の太陽」と、希望で終わらせています。「船のいる風景」は歌詞のような詩です。「船のいる風景」が二箇所の「船の入り」に意味を持たせているのでしょうか。四篇とも抒情を表現しており、なにかしらの浄化を感じました。

妻の不在 (2)

 「妻の不在(1)」で、タイトルの通り夫の視点から見た妻のいない家庭の脆さを描写しました。(2)では反転させて、妻の視点からの夫婦であること、女であることの描写になっています。夫と妻が鏡像のようにペアで構成されているのは、後味・読後感としてほっとするものであり、同人誌的にはよいのかもしれません。作者はここに満足してはだめなように思います。もっと、「私は作家」という意識を持ったなら、もっと突き抜けた作品になるような気がします。一文を示せばP34上段4行目、「誰がいるのよ。いないわよ」です。この一文は、この作品の中で一番光った文章です。夫もいない、憧れた別の人生もない、妻である自分もここにはない、女である私はどうなのだろうか。そこまで突き詰めたなら、一拍二日で家に帰ることは、おそらく出来ないでしょう。長編小説を書かねばなりません。

《ぼくたちのひみつきち 五》

 なかなか複雑な様相を呈してきました。➀から④の2までは、僕とつじ君が「ひみつきち」をつくり、みんなが集い、家に帰って行った、で一区切りをつけました。次に、三十年ぶりの同窓会でのあれこれ。それを受けての「ひみつきち 五」です。視点人物を「僕」から、「ひみつきち」に集った個々に移し、原初の「ひみつきち」に向うそれぞれの背景を描写する段階になったのです。記憶のうねり、反復が展開されるのでしょうか。この山口君のパートでは、なんと言っても女先生が秀逸でした。忘年会で話が盛り上がりまして、皆さんも山口君的体験(いたずら)をしていたというのにはビックリでした。罪を犯し、その罪に対して自己に罰を与える、罪と罰を受けた自分を許してくれる友人がたくさんいる、いた時代だったなあと、懐かしく思い出されます。「ひみつきち」とは心の溶鉱炉のようなもの……。

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