毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
ここのところの映画日記を読んで感じるのは、オリジナルな作品が、特にメジャーな映画において、少ないのではないかということです。それに反して、実験的なところに芽生えつつある新しい動きには期待がもたれるのですが……。ロバート・レッドフォードなどの運動の成果があるのでしょう。残念ながら、今回掲載された映画を観た人が、出席者の中には一人もおりませんでした。強いて挙げれば、「ドラゴン・タトゥーの女」をテレビで、やはり「汽車はふたたび故郷へ」の監督にまつわるドキュメントをテレビで観た、といったところです。全身にドラゴンの刺青を施し、世界を拒否する女性には衝撃を受けました。「汽車はふたたび故郷へ」の、共産主義を否定し、西洋資本主義をも否定した監督の向う故郷とは何かには、抒情的刺激をうけました。余談になりますが、現在、バチカン銀行での不正が問題になっているようですが、これはなにやら「ゴッドファーザー・パートⅢ」の主題と重なった問題で、映画が現実になったという点で興味があります。
今回の各篇に共通してあるのは、交感だと思いました。物や季節などの自然、在る物と無い物との対置および並置、言葉の介在、こうした様々を駆使しての「交感」なのです。最も支持された歌は、〈「九十歳のうえは忘れて春を待つ」去年のおとうとの年賀状はも〉でした。九十歳までは自分の年齢を数えたけれど、そのうえは数えることを止めてしまった。その止めたことを「忘れて」と表記することで、「うえは」にある中空にわが身を浮かせ、「春を待つ」心境を詠んだ句になっています。中空にある身にとっての「春」とは何かです。この俳句が届いたのが去年の年賀状で、「おとうとの年賀状はも」と短歌にして返歌した作品でしょう。もちろん返歌は「うえ」にいるおとうとに対してです。「はも」の文法的な意味はわかりませんが、どことなく最初に返すようなところがあり、「はも」で終わらず、再び詠み出しの「九十歳のうえは……」と反復するように感じさせます。その余韻の優れた一首だと思いました。男の俳句、女の短歌、とも言います。俳句と短歌の見事な交感がここにあります。
ストンと小説になっていて、作者の構想力・構成力を十分に堪能させる作品です。魂の美しさを持つ田山正一と、身体の美しさを持つ登志夫を登場させ、正一の彫った彫刻にその両者の美質を結実させている点など、いかにもドイツ風だと思いました。この作品を読んで一番おもしろかったのは、作品では正一が彫像を彫っているけれど、作者は正一を丹念に彫り込む表現をしているという、作品と作者の同質性です。最初は田山と登場し、次に田山正一になり、やがて正一になるのです。一方の登志夫は最初から登志夫で、最後になってもそのままです。惜しむらくは、やや教示的なところが見受けられ点でしょうか。まあ、ドイツ文学には教養文学的な側面がかなりありますから、そうした面が出ているのかもしれません。現在完了形を多用していますが、現在形の述語を工夫して使用するともっとよくなるでしょう。正一のような芸術観・文学観は作者のものでしょうか。狂人の言葉としていますが、好感が持てます。「さくさく」掲載作品の中でも、支持の高い作品でした。
作者が連載している「ぼくたちの秘密基地」を書くに至った動機が、今回の「秘密基地まで」です。この時間の連関はおもしろいし、哲学だなと思いました。中年になり熟年になり、恩師の三水教授の退職祝いを期しての同窓会です。様々な先輩・同僚・後輩が宴を飾ります。あの全共闘運動の高揚した時代背景とともに描かれます。そして現在があり、その間に横たわる時間がアルコールの酔いに染み込んでいきます。もしかすると自分が辿ったかもしれない道を歩んでいる近藤君との会話。それは自作の「カンガルーと走った」、その導入になっている『思い出テレビ』に行き着き、そこに書き残したことのあることに気づきます。現在から見た三十五年前、また小学生の頃への視線。それと、小学生の頃に遠くに馳せた視線が現在の自分に届いているのかどうか、物書きの衝動を呼び覚ますに十分な動機でありましょう。「ぼくたちの秘密基地」を読んできて、これまでは「秘密基地」にどうしても重心をかけていたのですが、今回の作品を読んで「ぼくたちの」の方にも焦点が移動する心持がしました。
今回の章には動きがあり、いよいよ何事かが明かされる観がします。清太郎が通詞の志筑家に、志筑家の嫡男である元勝の弟弟子として世話になっていたことなど、なにやら秘密めいていて、この後が楽しみになります。清太郎が何者なのか立ってきたのと同時に、登の意志が明確に描写されてもいます。冒頭の部分で、登の生家や早矢の家のことなど説明風に書かれていたのに、「早矢は博多独楽が得意だった」と急展開させ、すかさずその場面へと没入していくのですが、それが夢だったと放って、見事な文章転換技術だと思いました。ここのところでの描写、「鉄の芯棒に麻の紐を巻きつけ強く引き、回す」の「鉄の芯棒」は登自身を暗喩しているかのようでした。また、「蟻の行列を乱したことはありますか」も意味深な箇所でしょう。なにしろ『扇の蟻』の蟻なのですから。考えてみれば、登は役割を持たない蟻なのですから、最初から「行列を乱し」た存在なのだと思えます。ことのほか現代的な文章になっていておもしろい、という方もおれば、横道に逸れすぎるという方もいました。次回を楽しみに、連載を終えたら通読してみることですね。