毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
――みちのく一人旅(被災地を行く)――と章題を置き、空間的にはタイトルのごとく東北を、また時間的には8月15日前後と、8月27、28日頃のことを「気まま」に表現した作品です。「8月15日」は敗戦の日でありますが、象徴的には広島・長崎の原爆投下を受けての「その日」であると、私達は回想します。この作品では、福島原発事故を第二の敗戦・被爆と見立てるようなところが伺えます。しこうして、作者の誕生日である「8月28日」に、自らの「生」を改めて見つめ直してみるのです。そして東北であります。作品の行程は行きつ戻りつしていて、地理的な知識がないとわかりづらくなっています。「岩沼」から東北は分岐する、そこを奥まっていくとさらに分岐していくのでしょう。震災の「明と暗」を客観的に見ているところや、震災から離れて、ふっと自分の世界に入っているところがありますが、まさに「一人旅」の風情だと思いました。
小品です。いくつかの箱をブロックのごとく操作するマジック的な作品だと感じました。エレベーターで五階(誤解)に上がり、下りる、が、ここでの大きな箱です。誤解にも様々あるのでしょうが、マッサージ師→老人→老人のうぬぼれ(若者批判)→老マッサージ師の腕の未熟さ→出来事の終了、となるのです。このことを通して何事も変わらないのですが、ただ一点、わたしだけが変わってしまっているのです。つまり、一応は若かったわたしが、外に出ると、老人の一団に入っても違和感のない「当の老人」になっているのです。そして「日は沈もうとしていた」で締め括られています。人生は取り返しのつかないものです。リアリズムの文体で書き通しているけれど、そこに書かれた内容は不思議な成行きになっていて、一種、奇妙な作品といえます。いくぶん、若者と老人の対立が際立っているようなところが気になりました。
植物の蔓の先が視点となり、そこに次々と世界を造型していきます。地下の体育館。地上の体育館では柔道部の女生徒が稽古に励んでいます。その地下へと、一生徒である彼女は教師の手をひいてしのびこむのです。それは月曜日の朝。「彼女はここで、制服の胸の紅リボンをつけていた事が一度もない」のです。なぜなのか。女生徒強姦致死事件の現場だからです。ほんとうにそのようなことがあったのかどうかはわかりません。誰も語らないからです。視点足りうる蔓の先さえ、無から生じたものであり、無は無なのです。体育館も女生徒もここにはいないでしよう。もしかすると、満月の夜の明けた朝に教師の死体が発見される、といった事実だけがあるのかもしれませんが……。その死体は風の音とは異なる、サワサワという何物かの立てる動きに包まれているのです。サワ(茶話)とはそんな、目の前にあるものの裏側の世界です。
かなりの力作です。ただ、長編小説と短編小説のアンバランスさがあるように感じました。歴史的で実証的な書き方は作者の得意とするところですが、その手法を短篇に適応させると、窮屈になります。この作品において主人公は「私」であります。ところが、作品の主要なところでの主人公は、どうも「秀さん」の他にないのではないかと思えてしまいます。同じ一人称であっても、沿革を描写する時と気持を描写する時とで、ねじれが生じているためではないかと思います。なかなか難しいところです。同性愛がテーマになっていますが、秀さんはそうであっても、私はその舞台に立っていないことも、「まだ小説の入口に向っている」という感じを与えます。「繰糸」ということで、私は秀さんの気持を受け止めたにしても、です。日本武尊と川上梟師の挿話はたいへん勉強になりましたが、いかにも直球勝負だという感じがします。もちろん、このままの形でも高い評価は得られるのですが……。
昨年の夏は、どうしたわけか蝉の鳴き出すのが遅く、かつ数も少なく、鳴き終るのも早かったように記憶しています。冒頭の「……熱き夏も逝くらし」は、いかにも重々しく心に落ちてくる一首です。自然のあつさならば「暑き」と記すところを、「熱き」としたのは、放射能を意識してのことでしょう。重たい現実に接すると、なぜか「平凡」な歌に惹かれます。「大津波に一本のこれる……」「タクシーの運転手……」「列車にのりし盲導犬は……」「指先のかすかな痺れ……」「諍いて無口となれる息子との……朝の挨拶」「抜きんでる「なでしこジャパン」に……」こういった心やすまる歌に慰められました。目の前にあるものを歌にする、ただそれだけを心がけているという作者に、表現する基本を教えられた気がします。もうすぐ夏になります。今年の夏は、いろいろな蝉が、順序良く鳴いてくれることを願います。
これはうまい文章だ、といったところで、その文章のどんなところがうまいのかは、なかなか指摘することができません。しかるに、この作品の文章はうまいです。現実的に、作品と作者は別個の存在ですけれど、良い文章というものは作品に作者が入り込んでしまい、そこで息をしているかのような面持ちにさせるものです。この作品にはそれがあります。「作品に入り込む」とは、作品に自己主張を投影することによって達成できるものではありません。反対に、作品の中に、自分を捨ててみるようなところがなければいけません。こうした作品と作者の「書く」ことに現われる息遣いが、よい作品となるのです。合評会にもありましたように、これに内面描写が加わると、鬼に金棒でしょう。ある年齢を超えると、新年を迎えるたび死者に親しみを増していく感覚があるものです。「お正月」と言いますが、その正月とはどんな意味があるのだろうか、なんて考えさせられました。なんとなく、単純に、「晴れがましさ」とだけ想像します。
短篇には収まりきらない色々なこと(哲学)が書き込まれています。その書き切れないことを見越して、「真一と理樹」の存在を象徴的に現している作品でしょう。でも、やはり枚数が足らないと思いました。タイトルの「二つの空」が、何となく「一つの空」+「もう一つの空」=「二つの空」風に分離したまま構成されているように感じました。ともあれ、かつて見受けられた作者の「日常と哲学」の対立が影を潜め、歩み寄ってきているように感じました。作者の中の哲学が成熟してきているのでしょう。わかりやすいことは、読み手にとってありがたいです。作者の哲学の深化があってのことです。真一に際立っていることですが、理樹、また家族にも、それぞれに孤独があります。『長寿一本道』界隈の自然描写・風景描写は相変わらず見事なものです。「二つの空」と「一本道」の対比が妙に的を射ています。