毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
今回は「詩の原理」と銘打って書かれていますが、どちらかというと、「読書の原理」あるいは「合評会の原理」に相応しい内容かと思いました。優れた作品がある、けれど、合評会にて読み手の能力が足りないがために拒絶されてしまう、ということはよくあることです。個々人の能力とか好みとかはそもそも異なっており、書き手も、読み手も、まずは自分の作法に従って書き・読むのですから、そういう齟齬の生じることはいたし方のないことです。また、その場のことはその場のことで、優劣をつけたり糾弾するようなものではありません。取り上げられた作品『遠い町から来た話』は、読んでみたくなるような一篇ですね。「誰にも読まれずに終わった詩たち」というものは、ほんとうは膨大にある、ということを踏まえると世界も広がってきます。
やさしい文章の流行る昨今において、この作品のような概念をストレートにぶつける表現は斬新です。哲学的言語を丹念に思考することは、上っ面の情報に流されやすい現在においてこそ求められるものでしょう。自同律の不快、パスカル、カルマン渦、仏教哲学、フラクタル理論、埴輪雄高、ハイデガーと、いずれも堂々としたものです。作者に質問をしたいと思うのは、冒頭の「不合理故に吾信ず」です。私の思っていた「自同律の不快」は、「合理ゆえに信ぜず」なのですが、どうでしょうか。もしかすると、作者はそこのところを超越的に統合しているのかもしれません。もう一つは、「世界=内=存在」を「世界=外=存在」と対置しているところです。後者は「疎外論」なのではないかと感じました。哲学の巨人であるハイデガーに正面から挑戦するなんて好ましく思います。概念の内側に対する記述もあると、他の人にも理解できるのでは……。
この詩を読んで、遅まきながら作者のペンネームの意味を理解できました。作者にとって、石川啄木とはもはや自分自身に他ならないのです。自分の顔と啄木の顔、その半顔が合わさって一つの顔なのですが、その一つになった顔を斧でもって断ち割るのだという意気込みが、「斧半顔」のペンネームになっているのだと理解しました。断ち割った末に現われる己を求めているのです。この詩は、まさにそのことを物語っているように思いました。前半は、作者が啄木に成り代わって啄木の実像を描いています。なお後半は、その啄木に対する作者の弔辞のようなものでしょう。啄木の没後百年に当たる2012年4月13日、それを、4月15日に合評できたことは、幸いこの上もありません。啄木は天才だったのか、凡人だったのか。天才だったのでしょう。けだし啄木は、私たち凡人の中に留まってある類稀な天才なのです。
たいへん面白い構成になっています。というのも、前編の流れを中篇でこのように受けるとは想像もしていなかったからです。かなり艶っぽい展開を期待していた方が、私を含めて多数だったのではないでしょうか。また、尼僧・啓韻からの視点は、この後の後編を予想させて巧みです。今回の内容は、真面目だなあ、という印象でした。真面目に仏教を問答し、くだけていえば、プラトニックなデートを楽しんでいる、といった感じです。問答に関しては、とても勉強になりました。おそらく作者の得意とする分野なのでしょう。そのせいか文章にもグンと滑らかさ、安定感が感じられます。曹洞宗と浄土真宗の対比はいいですね。警察と税務署の双方からマークされている、カラオケ店〈ぼんから〉の内情やいかにですが、さてどうなるのでしょうか。なにがなんでも後一回で終わる必要はなく、作者は思う存分楽しんで書き進めることが肝心です。男の視点、女の視点、とくれば、次は男女の視点なのでしょうか。楽しみです。
純文学とエンターテイメントの二つの文学ジャンルがあるとすると、そのどちらのジャンルの場合も、いざ表現するとなると難作業を伴います。この作品は紛れもなく純文学作品でしょう。タイトルの「部屋」はいたって素っ気なく、いかにも物語を廃した作品であることを象徴しています。またビジュアル的なところで、行あけにした箇所の「――――」を使用している点は、家の間取り図みたいなものを連想させ、かなり効果的です。作品の主な登場人物は、父さんと母さん、友達の晶、死んでしまっている兄の陽一、それに僕である恭一です。それぞれに対して洗練された表現に刻んでいるでしょう。両親に「お」をつけない、友達に「君」をつけないなどと。このことは、家族も友達も、存在の実感がないのだ、そんな作者の描写ゆえなのではないかと思われます。家も部屋も、個々の人間の心も、すべてのものが空っぽで、実体がないのです。個々の役割だけがある世界です。ネット空間とリアル空間、その融合したようなものを感じました。
ノンフィクション的な風貌を持った作品です。おそらく作者が、こうした自分の特質を充分に理解したならば、インパクトのある作品をものにする力だってあるでしょう。ノンフィクションというのは、例えれば時代小説のようなもので、資料とか調査とか、客観的な労力を注がなければなりません。いずれライフワークになるテーマを見つけたなら、ぜひ挑戦していただきたいものだと思っています。さて、作品です。東日本大震災を被災した新沼麻美と、兄の新沼功は、複合的な事情により埼玉のとある町に転地療養をします。麻美の仕事は生活保護課のカウンターで、津波に見舞われて避難してきたのに、今度は社会経済の底から押しよせる貧困の津波に四苦八苦する始末です。作者はかなりユーモラスに表現しています。でも昨今の経済環境を思い合わせると、作中の麻美が、自分たち兄妹が生活保護受給者になるのではないかと危惧するように、どことなくイヤな時代であります。そんな二つの状況、地震と経済を巧みに重ね合わせた作品です。
主観の強い作品で、その主観から少し離れる術も作者は備えているんだな、と感じさせる作品です。いわば、小説になっている小説といえるでしょう。主語は明確に「私」になっているけれど、友達からは「さり」と呼ばれています。これは、もしかすると「沙里」なのかもしれません。言葉の意味が、夕方の水色の空のように透明になってしまい、そこに音だけが残された結果なのです。ゆえに、「私」がタイトルに客観化されると「わたしのこども」になるのでしょう。末尾の二行に関しては、賛否両論ありました。これは、抒情的世界を是とするか否とするかで別れるところです。作品の構成の面で、主観に肩入れし過ぎているのではないか、といった印象が持たれますが、まあ、作品が作者に影響を与えてしまっているのだ、と受け取れば、それだけインパクトのある小説だということになるでしょう。個性のある貴重な作品だと思いました。