毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
美也子と水野浩太との出会いは出会うべくして出会ったのだけれど、水野浩太には妻子がいたとは露知らず、感情は熱くなれど、もやもやとした、取れそで取れない厄介な小骨のような違和感に美也子は煩わせられる。糸車が小気味よく廻るのと同じように、それは美也子にとっても、浮気者の水野にとっても同じように、人生の歯車は回って、回るのです。つましい夢を育もうとして、それに向かっていたにも関わらず、互いの気持は合わさることなく、いつの間にか他者の関係となり、時間ばかりが積もって行きます。まあ、浩太はちょっと悪かったかも、一方の美也子は……。
とても刺激になりました。とはいえ、書かれていることのパーツのようなものの一つ一つを頭の中に入れても、それを頭の中で一つ一つの考えとして十分につなげることは、多分、できなかったかなと思います。この作品に登場されている一人一人の、技術に関しての知識には深いものがあって、その技術の箇所での昨日はもちろんのこと、他の異なった技術の箇所でも応用する知恵を持っているのだ、ということを感じつつ、すごいなと思うばかりです。素人なので、素人っぽく感想を述べると、半導体と組み合わされた何事かの「機械」って、こわいし、機械との友情と交われるか。
哲学的な作品だなと思いました。何がどうなっているのか、それは、それは、とても不思議でしょう。そもそも、幸いなことに「ぼく」がいるのです。その「ぼく」がいるのは、私なのでしょうか。私がいて、私を包み込むと、私は「ぼく」をみることができ、ぼくなのです。ふっと気づくと、タイトルは「机」です。これも不思議です。もしかしたら、この机が「ぼく」と「私」を、その教室にあらしめているのかもしれないなあ、と考えたりして、この作品を理解しようと「私」は一生懸命です。この一生懸命は、単にこの感想文を書いている坂本にすぎません。一生懸命に…。
とても感動する作品でした。随分昔のこと、50年位前の話になりますが、インドの支援活動をされていたという女性にお会いしたことがあります。その方は、お金を貯めて、また来年になったら、インドに行くのだと笑顔で話されていました。北海道の方なのに、暑いインドに魅了されたということが、何と言いますか、なんとも彼女らしいと思い出されます。彼女も私も、同じ教室で化学分析を学んでいました。来年になったら、またインドに行くと言われていました。おそらく、行かれたのでしょう。あのころのインドと比べると、驚異的な大国になってしまっていますね。
作者が書く「詩」にしては、とてもストレートな作品ですね。でも、そのストレートなところが気になります。もしかしたら、他者へ向けて書かれた作品ではなくて、自分に向けて書かれた自戒の作品なのかな、と、なぜか思われます。強いことをかいてある詩なのですが、よくよく読むことができれば、とても優しい詩なのです。
こちらの『ドンマイ』は、なんとく、自分の気持を捉え直したような作品だと思いました。子供達のことなのか、あるいは孫達への応援歌なのか、たいへん頼もしいお母さんになっています。いつもの詩風よりも、率直に書かれているように感じました。自分に率直に、ふっ、とそうなったのかもしれませんね。
今回の読書雑記のタイトルは「戦時を経て」です。導入の初っ端に「サンタクロースが天上から見たのは、爆撃機だ。」と幕を開けます。サンタクロースと爆撃機とでは、とても相性が悪いだろうに、それがそうではないのが戦時というもので、すんなりと治まってしまうのですから、とても悲しいです。悲しくは作者は書いていないのですが、ちやんと、読者は悲しむのですから、とてもよい作品でしょう。平和の時代になって、ずいぶんとよい時代になりましたが、どうしたことか、また反転して、世界のあちらこちらであらそいごとが増えてきてしまっています。
なんとなく変な「文学エッセー」なのではないかと読み進めていきましたが、そのような単純な合理性でなく、では何かと考えるのですが、納得するような理解には辿りつけませんでした。そうなのですが、作者の作品における見通しのようなものは、ストレートに感じられます。「野田宇太郎の文学散歩」なので、野田宇太郎の視点で書かれている。その傍に、作者がいるような構造が、この作品に独特の味わいをもたらすのでしょう。野田宇太郎の役目が終わると、なんとなく作者の登場なのでないかと、作品の構造を、なるほどと感じさせられました。
長編詩なので、それに対して述べるのは至難の業で、冒頭部分に限定して述べます。一連目で「秋生」の追想的なはじまりが書かれ、今となっては、そこに見るのは「杏子」のみなのです。タイトルが〈秋生の実存〉なのですから、秋生と杏子をつなぐものがあるのでしょうが、推測するに、秋生と杏子をつなげるのは、秋生の妻であり、杏子の母でしょう。歴史というものは、その単純な営みによって、幸いにも紡がれてきたのです。この作品を読んでいて感じたのは、大いに、体験的なことが詩として開示されているのかな、ということです。そうだとすると幸いです。