2024年10月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:10月20日(日)
  • 例会出席者:7名

食べ物

 なんとなく工藤さんの書く文章が、以前と変わったように感じました。文体が、意味を的確につかみ、気負いなく描写されているのです。ご自分でも、うまくなったと気がつかれているのではないでしょうか。秋の秋田県、これから冬に向かってラーメンが美味しくなるのでしょうね。さて、とです。ポパイ鍋の話題に移るのですけれど、母や父と一緒にではなく、祖母と祖父とポパイ鍋を囲んだということで、それは少し以前のことで、そのことを『自分のこと』と書かれています。末尾には、祖父も祖母も鬼籍に入ってしまったとあり、びっくりしましたけれど、祖母や祖父は、よいお孫さんを持ってお幸せだったのではないでしょうか。

映画日記 67

 ある意味では映画日記なのかもしれません。小津映画に対するコメントに、とても納得させられました。〈人の映らない旅館の廊下にも、オフィスビルに並ぶ窓にも、静寂がある〉との言葉は、映画を熱く愛する達人ならではの目線でしょう。観ても分からないのですけれど、小津の映画となると、自然とこちらの体に入って来るのです。入ってきて、普通の映画よりも長く留まります。P188の下段の末尾、[『サン・セバスチャンへ、ようこそ』には、希望も教訓もないが、ウッディ=アレンは、まだ枯れたわけではない。次作も撮るらしい]には、作者のウッディ=アレンに対しての、また、映画に対する友情のようなものが伺えて感動しました。

シラカシの思い出

 進太郎は自分勝手な子どもだけれど、公平くんは、進太郎と友達になってくれた。ある時、木に登って遊んでいたら、犬が木の下に来て噛みつきそうに吠えて、いかようにも木から下りられなくなってしまった。やがて犬は木の下で寝てしまう。その隙を捉えて進太郎は木から下り、公平君を置き去りにして逃げてしまったのだ。さて、そのあと60歳になって、進太郎は公平君を訪ねていくと、快く迎えられたのである。公平君は子供の頃のあの時の記憶がないという。が、奥さんがこっそり云うには、覚えているけれど、敢えて言わないのだと告げられる。50年という時間を進太郎も公平も、心の中に閉じ込めて生きて来たのですね。奇跡的な邂逅ができて、めでたし、です。

永井荷風 女性とお金―その11

 この[永井荷風―女性とお金]は、文学市場『さくさく1号から89号』に掲載された作品において、ダントツの長編作品なのです。すごいと思います。なぜ、このように書けるのかと不思議に思ってきましたけれど、すっかり忘れてしまっていることを、ふっと、思い出しました。これは作者にとっては不本意かも知れませんが、作者は、かつて、社交ダンスにおいてそれなりの実績をもたれていたのです。男が女の、女が男の、互いに腕を絡ませたとき、互いが互いの心の内をつかむ、そんな才能をもっていて、それを発揮されてこの作品を書き続けられているのではないかと、遅れ馳せながら合点しました。永井荷風と駒本弘の対決です。両者ともに頑張ってほしいです。

右隣の彼女 2

 いなくなった右隣の彼女にふいに駅前にて遭遇したり、名前を知っている唯一の同僚である野宮さんが前触れもなく消え、その野宮さんの席に新しい女性が座り、前の席には男性がと、この作品にしては思いもよらぬ大変動が勃発しました。「かわべり」もなくなってしまいました。今回の『右隣の彼女』を読んで、いつもの作品ではないようなものを感じました。何か、格段に深い世界に引きずり込まれたような思いがするのです。言ってみれば『右隣の彼女』には分け隔てなく、誰でもなれるのです。坐っていても、歩いていても、どこにいても、瞬間的に「私」は「私」でなくなってしまい、他者になってしまい、もう誰も知らない人になるのです。すごい作品です。

由架

 納得することを拒むような、論理をどこまでも外した瞬間々々の出来事の顛末を、多構造的に構成した作品でしょう。とはいっても、よく理解できないというのが、正直なところでもあります。主役となる『由架』は二人いるのです。一人は絶世の美人である由架。もう一人は世にも恐ろしい顔をした由架です。一つの胴体から、その二つの顔は伸びていて、おそらく、二つの顔は『信吾』と縁ある女性なのですが、P260下段6行目の隣家の女性のいう「あなた、ずっとお一人でしょ?」は、冷や水のごとき一撃です。リアリズムの世界と、幻想の世界とが、異なる世界であるのに頓着することなく交差させて、剥奪された世界を見させてくれた作品でしよう。難しかったです。

ふりむくこと

 真白なこころに書かれた、浮かんできた言葉を誰ともなく届けたい、つぶやきのような「わたし」です。なにごとも、体のいろんな部位にかかっていた力をぬき、届けたい言葉だけを書いたなら、このような詩になるのだなあと、感動しました。この詩を書いた「自分」の視点みたいなものは忘れないでください。ただ四連目は、なんとなく深いものがあるのか、言葉が届かないような趣をしています。ほんとうは、それほどでもないのですけれど、もしそうなのなら、言葉は伝えたい人に伝わっていますよ。アドバイスとして、いろいろな詩の文学賞に応募されることをお勧めします。いろいろな文学賞があります。私の知っているのは『銀貨文学賞』です。

悪徳と沈黙

 なぜか、この作品は二度読んでも内容がわかりませんでした。1995年3月、佐々木学が毛布の山に飲み込まれたというのも、なぜか「上の空」にしか理解できませんでした。山手線の各所にサリンガスが散布された、あの当日のことだとわかると、まるで思考力がなくなってしまうのです。この日は『文学市場』が立ち上がって間もなくの頃で、当日の合評会を池袋の勤労福祉会館で実施しての帰り、池袋の駅でも物々しい騒動となっていました。オウム事件があって、平穏に戻っても、オウム事件から受けた衝撃は私たちの心の形を、何処か異形のものにしてしまったのではないかと思います。平穏をとりもどしましたけれど、その深い心の底になにかが……。確かなものがなくなった。 3  とりあえず、核戦争が起こらないよう願います。