2013年2月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:2月17日(日)
  • 例会出席者:9名

映画日記 32

 作者が、このコーナーを「日記」「掲示板」と捉えていることは承知していますけれど、合評でよく出される意見は、もっと踏み込んだ作品評で紹介してほしい、というものです。作者の紹介の仕方にしても、徐々に変化していくのでしょう。今回のサンドイッチ方式とでもいうのでしょうか。冒頭に「ヒッチコック研究会」と、こよなく映画を、ヒッチコックを愛する映画人の集いを紹介し、末尾では「屋根がなくても」という写真展から見た映画史で締め括っています。作者は数多くの映画作品の記録を心がけているのでしょうが、読み手側では、その見ていない映画に、この「映画日記」から少しでも辿り着けたなら幸いだと思うのです。ですので、「ヒッチコック研究会」「屋根がなくても」みたいな「余分な掲示板」を歓迎しています。ここのところ、一世を風靡した映画監督が亡くなっています。今回は若松孝二でした。暴力とセックス、ドラマと現実の融合に優れた映画監督だと聞いています。

Desert

 この作品を小説と規定すると、詩に堕ちてしまっているといった評価が思い浮びます。反対に詩なのだと評価すると、やはりどこか散文に崩れてしまっている点が気にかかります。小説でも詩でもなく、一つの断章なのだと思うと、懐かしくなるでしょう。冒頭の「緑におおわれた、坂の多い町だったわ」は、「世界」です。ママとわたしは坂の下から、この親戚の家にやってきたのです。そうして結末での「わたし」は、「緑の坂を駆けのぼる」のです。対照を成すのは、粉をふいたような(ビスケットのような)「おばさま」と「たぷたぷした御主人」です。御主人は病弱で、なぜ病弱かと言えばたぷたぷしているからで、水分=感情を持っていると「人間の病気」にかかりやすいのです。病気にならないために、おばさまは渇きの求道者に生きています。「……」や句読点でベクトル化された世界に、小猿を追いかけ、緑の坂を駆けのぼる「わたし」は、生きることに果たして無事なのかどうか……。「濡れた眼のなかにたぷたぷした御主人を抱いているのだろうおばさま」は、いいですね。

好色譚

 日本の家族制度において、結婚に関しては大陸の中国とは一線を画していて、恋愛結婚が基本なのだとテレビ番組で見たことがあります。もつとも、それは食べることに不自由しない身分の方々に限ってのことです。封建時代になってから、その風習が崩れてしまったのは残念なことかもしれません。恋愛天国なのですから、好色の天下だったのです。そこで「好色譚」です。平中はまこと純真に色好みの男です。どんな障害にもめげません。「人妻。おおいにけっこう」なのです。ところが好敵手はいるもので、それが見初めた侍従とは、災いというしかありません。もう一人の色好み、時平は純粋な好色ではありません。権力誇示を含んだところでの色好みといったところでしょうか。その権力絡みで登場するのが菅原道真です。作品の後半になると、男の側からの好色が、女の側からの復讐へと様変わりします。北の方は息子への愛に、侍従は新たな野望に目覚めるのです。P170に、「尊意は折敷に柘榴を盛って」とありますが、柘榴は意味深な名詞です。子々孫々の繁栄を祈ります。

嗤う吾

 観念小説としての堂々たる大作です。作品にある哲学的な格闘に、心からの敬意を表します。このような作品に最近はめぐり合うこともなくなりました。そもそも、面と向かって哲学的思考をする習慣がなくなってしまったのでしょう。作品の構図は、[私→(吾→闇の夢)]なのですが、この関係が様々に変化して、反復して試されるのです。作品の眼目、埴谷雄高が掲げられ、自同律の不快を問題としています。ここのところは共感いたします。ですが、私の埴谷雄高の「自同律の不快」理解では、存在は矛盾を孕むものであり、ゆえに世界と自我を否定、永久革命を思考するのが自同律の不快だと思っています。ところが、作者の表現する自己否定は、否定に拘り、一歩も進まないのです。それは、作者の広範な知識が邪魔をしてしまっているからではないでしょうか。哲学は観念・理念で思考しなければなりません。そこに、いろいろなジャンルの理知を接木して文学してしまうと、返って否定すべき自我が肥大化してしまい、哲学の場から離れてしまいます。とはいえ、私は作者のような無謀な書き手に好感します。共に論議してまいりましょう。

十字式健康法

 体の不調、薬害のあれこれを話題にする日常の中で、ふっと、「十字式健康法」の話が出て、この随筆になったのでしょう。十字式健康法の先生の名を聞いたら、山下という先生で、なんと作者の知っている方だというのです。山下は、作者と共にカイロプラクティックを勉強にアメリカに行ったが、彼は途中で諦め、作者は資格試験に合格したのです。ところが山下はカイロプラクティックから名前を盗んだような「十字式健康法」で治療院を開業、大儲けをしているようなのです。ただ、この作品の展開には、なんとなく情報不足があるように感じました。実は、私も「十字式健康法」の治療院に行ったことがありまして、もともとは北海道のキリスト教の修道院が発祥なのです。山下先生とは、そのキリスト者で、修道院の方なのか、この作品からは不明です。確かに、気孔なんて言いますといかにもインチキ臭いですけれど、巷に気孔のお店は沢山ありまして、社会認知はされているのです。

紋付鳥の住処で 夕暮れ時を

 たいへん感動しました。前編と打って変わった充実度を感じました。作品は、篠田家の戦後の転換期を「知江」「久平」の視点から描いています。二人とも、古い時代言葉で言えば、篠田家に奉公したのですが、戦後の転換期、いわば民主主義の普及と共に、奉公から私的な奉仕みたいなものに変身していくのです。それを「恋愛」と括らないところが作者の卓抜さとなっています。もちろん、恋愛なのです。知江は宗太郎に、久平は清乃に、恋をしているのだけれど、それは言葉にしてはいけない禁句なのです。一般的に、このような作品を書くと、どこか図式的になってしまうものです。主従関係と恋愛とが融合できない故です。ところが作者は、知江が耐えた強度に見合って、表現に耐えているのでしょう。作品の構図の向こうに、知江、久平、作者の感情を見事に見させてくれます。知江、久平、清乃、宗太郎の、せめて記念写真を撮らせたいと思わずにいられません。もっとも、この作品が、その記念写真なのでしょう。

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